筑後川のほとりで/石田平「筑後の画帖」

森の空想ミュージアム/九州民俗仮面美術館の高見乾司さんが吉井町に暮らした孤高の画家、石田平について書かれています。名文です。

筑後川のほとりで/石田平「筑後の画帖」[オンライン展覧会<5-12>]【春の森へ<12>】 祈りの丘空想ギャラリー・コレクション展―2月5日~3月10日
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片付けものをしていたら、思いがけないものが次々に見つかった。およそ20年ぶりに再会を果たしたものもある。先日公開した私の鉛筆デッサンや油彩画「雪の日」などもその一部だが、それらの荷物に混じって石田平(ひとし)という画家のデッサン18点が見つかった。2001年5月、空想の森美術館を閉館し、由布院から宮崎へと移転する時、古家具と蒐集品を運送会社の4トントラック4台と、ワゴン車2台、乗用車2台の合計7台に積み込んで、砂漠を行く探検隊のごとく移動した荷である。その中の、私の仮面デッサンと風景スケッチの束の中間あたりに挟まって出てきた。石田氏の作品の大半は、額装のまま縁のあった知人の元へ届けたのだが、額装していない分が紛れ込んでいたものだ。
初期の空想の森美術館の日常を記した「空想の森から」(青弓社/1990)に「筑後の画帖」という章があるので、一部を要約して採録する。
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『画家・尾花成春氏から、石田平(いしだひとし)という画家の作品を、二百点あまり、ご寄贈いただいた。石田氏は、尾花氏の遠縁の人で、いまからおよそ二十年ほど前(*2021年の現在から逆算するとおよそ50年前)に亡くなった人だ。筑後平野の南に横たわる、耳納連山の山麓の、牛小屋を改造したアトリエに住んでいて、飄然と自転車に乗って山を下り、筑後川周辺の風景を描き続けた。
一時、中川一政氏を頼って東京に出た折と、軍隊に入って諫早の飛行科に行っていた時の他には、時折小さな旅行をしたぐらいで、筑後を離れて暮らしたことはない。吉井の町に代々続いた旧家の生まれで、家業を継いで普通に暮らせば何不自由なく生活できた身分の人だが、何しろ絵を描くことしか念頭になかった。父親は厳しい人であったらしい。ダ・ヴィンチのデッサンを思わせるような、石田氏描くところの数枚の父親像にも、よくそれが現れている。その厳父の意向で、妻帯してまともな生活をするようにと、無理やり結婚させられたりもする。それは石田氏にとっては、はじめから意に沿わない結婚であったようで、わずか三度しか臥所を共にしたことのない妻への同情の念、父の意に背くことへの苦悩、それらのことを振り切って、画作一筋に生きようとする自身の心情などが、連綿と書き連ねられた画帖もある。その画帖というのは、家業の活版屋の残り紙を裁断し、綴じ合わせた自作のもので、どれも縦10センチ、横15センチほどの小さなものだ。ザラ紙のような質の悪い紙を、針金や和紙のコヨリでとじてある。それが石田氏の写生帖で、絣の着流しのふところに入れて、氏はいつも持ち歩き、行く先々で絵を描いていた。
筑後川のクリーク。川岸を彩る夕焼け。わら屋根の集落。こんもりと繁る木立ち。農夫。荷車。田の中を走る道。ハゼの並木。色あせた小さな画帖に、筑後の風物が凝縮され、息づいている。いつしか私は絵の中に遊び、川岸に立って水の音を聞いたり、雲の色を見つめたりしている。さっ、と頬を撫でて過ぎたものは、どこか遠い場所から吹いてきた川風であろうか。
―以下略―』
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実家との縁が切れた画家・石田平は、近所の製粉会社からこぼれ出た小麦粉を拾い集めて粥状にして食べ、寒い日には古自転車を蒲団の上に置いて寒さをしのぐというような、極貧の生活を続けて亡くなった。油絵の作品は散逸。牛小屋のアトリエに残されていた画帖を尾花成春氏が形見と思って拾い集め、長年、自身の画業の指標として所蔵していたものを、私どもの空想の森美術館に寄贈して下さり、館の企画展が実現したのであった。その展覧会は、新聞各紙に取り上げられ、来館者も多かった。尾花さんの念願が叶い、石田平という知られざる画家の画業の一端に光を当てることが出来て、初期の空想の森美術館も「美術館」としての役割を果たしたように思えて、安堵したものであった。
さて、その後、前述したように空想の森美術館は閉館となり、私どもは宮崎へと移転してきたのだが、その作品群が手元に残っていたことは意外であった。だが、そのことが、思わぬ縁を結んでくれることになる。尾花成春氏もお亡くなりになり、その後、長男の尾花基氏が故郷の吉井に帰り、実家の近くで父君の作品を展示するアートギャラリーを開設したのだが、それが縁の一つとなり、「九州派」の作家と作品をネットワーク化し、展覧会を企画してゆく動きと重なった。昨年(2020)、博多阪急で開催された「九州派・それから」展がその結節点となり、新たな起点ともなったのである。そこで私は尾花基さんと会い、以後、連携して仕事をしてゆくことになるのだが、現時点で知人に託した石田平の作品の所在が分からなくなっているということを聞き、かなり落胆していたのである。その折も折、この作品群が、私の家の片隅から出てきたことが何かの符牒のように、私を感動させる。この作品群は、今回の展示終了後、尾花基さんのもとへ届けよう。作品が地元に帰り、彼が、今後、石田平さんのことを語る語り部となって引き継いでくれれば、私は満足である。そして、今は行方が知れないという作品たちも、そのうち所在があきらかになることであろう。
画面はいずれも11センチ×15センチ。絵画というものは、こんなに小さな作品でも、土地の記憶をとどめ、人の心に響き、残り続けてゆくことが出来るものなのだ。

筑後川の伝説/尾花成春「筑後川」

森の空想ミュージアム/九州民俗仮面美術館主催の高見乾司さんが尾花成春について書いてくださいました。
筑後川の伝説/尾花成春「筑後川」[オンライン展覧会<5-13>]【春の森へ<13>】 祈りの丘空想ギャラリー・コレクション展―2月5日~3月10日
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福岡・北九州と境を接する修験の山岳・日田英彦山水系、九州最高峰の山々を連ねる九重山系、阿蘇外輪山へと続く津江山群などを源流とする幾筋もの渓谷・河川は日田盆地の中央部で合流して三隈川となって流れ下り、大河・筑後川となる。日本三大暴れ川とも呼ばれるこの川は、昨年までの数年間で、英彦山山系の小野川・花月川、九重山系の玖珠川源流域、下流の久留米周辺などで甚大な被害を出した。それでも、河伯の怒りが鎮まり、洪水が治まれば、川の畔の村や町は、穏やかな日常を回復する。
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この筑後川の下流域で「河童」と呼ばれた男「鯉取りまあしゃん」(本名・上村政雄-1913~99)とは、厳冬の筑後川に素潜りで潜り、巨鯉を抱いて浮き上がって来る川漁師であった。まぁしゃんの漁法は独特である。コイの漁期は真冬。そのため、漁の前に大量の肉を食べて体力をつけ、たき火で体を炙って潜水する。深い淵に身を潜めるコイに、静かに近づくと、鯉は人の体温を慕って寄ってくるというのである。それを「おなごを抱くように抱き寄せる」という。左右の手に一匹づつ捕え、口に一匹の尾をくわえ、一度に三匹の大物を獲って浮いて来たこともあるという。少年期から74歳まで漁を続けた。
夏期にはまた別の漁法がある。月の明るい夜、笹舟に乗り、筑後川を流れ下り、月光に照らされた川面に浮かぶ丸太のような鯉を銛で仕留めるというのである。銛を構え、舳に立つまあしゃんは、巨鯨を狙うエイハブ船長のような風貌だったのではないか。
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この筑後川に沿った町、吉井に住んだ画家・尾花成春氏(1926-2016)は、若いころ、暴れん坊集団で鳴らした「九州派」の前衛美術運動に参加した。
「九州派」についてはこのFBで何度も記したので、ここでは現在九州派について積極的な活動を行っている福岡市の「ギャラリーもりた」のホームページから抜粋。
『 九州派 1950年代後半から60年代初め(昭和30年代)は、国内外において芸術の変革が叫ばれはじめ、 多種多様な美術が登場し始めた時期にあたります。日本においては、この頃東京だけでなく各地方都市でも様々な前衛美術グループが結成されました。既存の公募団体によって作り上げられた美術システムに不満争抱いた若い美術家たちがグループを結成し、無審査の公募展「読売アンデパンダン展」や屋外など作品展示には向かないような場所や舞台として、「絵画」「彫刻」 の枠には収まりきれないエネルギーあふれる実験的な作品を発表し始めました。東京の「ネオ・ダダ」 、 関西の「具体美術協会」がその代表的なものですが、中でもとりわけ異彩を放っているのが福岡市で結成された「九州派」です。
桜井孝身、オチオサムらを中心に結成された「九州派」の特徴は、生活者の視点からの美術表現や人々の生活に根ざした活動姿勢にあると言えます。それは日常の現実の中に美術や引き下ろし、また逆に、 日常の卑俗さなどを一つの美術表現に高めようとする行為、と言い換えられるでしょう。これは、九州派メンバーのほとんどが専門的な美術教育を受けておらず、「画家」であると問時に「生活者(労働者)」 であるという意識を強く持っていたこと、当時福岡県内では三井三池争議に代表される労働組合運動が盛り上がっており、思想的に共鳴する者が九州派内に含まれていたことなどが背景となっていると思われます。
九州派の作家たちは廃材やごみを作品素材として用いましたが、最も特徴的なものがアスフアルトです。印刷会社勤務のオチオサムが印刷工程で見出し、九州派のほぼ全員が利用しました。都市化の進み始めた福岡市内で入手しやすかったアスフアルトは、安価で、しかも独特の光沢争もち乾燥も早かったためです。また光沢のある黒という色が、日本の近代化を支えた三池の石炭と労働者のエネルギーを連想させたため、この素材は九州派のトレードマークとなりました。 結成当初は、東京での頻繁な展覧会活動によるその存在のアピール、そしてアンデパンダン展の組織などによる地元美術界の再編を試みました。しかし「前衛」に対する意識の違いから 1959年末に大分裂。桜井により再建されるも、彼らが思想的根拠争置いていた三井三池労働争議が 1960年に組合側の敗北に終わるという時代背景の変化とともに、九州派自身も活動のエネルギーや失い、1968年のグループ展参加を最後にその活動に幕を下ろしました。』
尾花さんとは、縁があって知り合い、私どもの「由布院空想の森美術館」で二度の個展を開催させていただいた。さらにその縁で、昨日書いた「石田平(ひとし)」という無名の画家の作品展を開催することが出来たのである。尾花さんは、九州派時代の過激な行動や言論はすでに捨て去った、温厚な紳士であった。そして筑後川沿いの古い町で、静かな画作を続けた。絵画教室も開き、門弟からは優秀な描き手も出た。青木繁や坂本繁二郎を生んだ豊かな筑後の土壌が、その画業の骨格を支えたのである。
画家・尾花成春についてもギャラリーもりたのホームページから引いておこう。すでに伝説となった人々は、静かに大河のほてりで、世の変遷を眺めていることだろう。
『尾花成春は1926年、福岡県浮羽郡吉井町(現・うきは市)に生まれました。
1941年、まさに太平戦争に突入しようとしているとき、父親が工面して油絵の道具を買い与えてくれたそうです。(その16歳時に描いた初めての油絵も現存)
戦後、絵の世界にのめり込んでいきます。1950年、25歳のとき、福岡県展と自由美 術展に初入選。その後、県展に連続入選し、若いながらも県美術協会会員に推挙されました。(九州派に入った後は一切公募展への応募は止める)
1957年、「反芸術」、「反中央」、「反公募展」を旗印に桜井孝身氏が九州派を立ち上げます。そして、描ける絵描きを九州派に入れたいということで、県展などで尾花成春の画を見ていた桜井氏が当時、福岡県朝倉郡杷木町の職場にいた尾花成春をスカウトに来ました。32歳のときのことです。
(九州派所属 1957~1965)
この間、九州アンデパンダン、読売アンデパンダン展に出品し、また1959年、第3回シェル美術賞展・鎌倉近代美術館で佳作賞を受賞しました。
九州派時代はアスファルトを使った抽象作品などを制作しています。その代表作「自画像」は1988年に福岡市美術館で開かれた「反芸術プロジェクト九州派展」の図録表紙になっています。この展覧会は埋もれかけていた九州派の活動を掘り起こし、結果「九州派」の名前を国内外に知らしめることになりました。尾花成春の九州派時代の作品は福岡市美術館にもコレクションとして収蔵されています。九州派の活動終了後も絵筆を持ち続け、絵描きとして自己の内面を追求し続けていきます。モチーフはその時々で変わって行きますが、一つのテーマを納得の行くまで追い続ける姿勢は変わりませんでした。桜井孝身やオチオサムが海外に拠点を移すなかでも、生涯、生地・うきは市を離れず、休むことなく描き続けたのです。筑後平野独特の風土性や日常性を主題とする絵画やオブジェ作品を制作しました。その作品数は優に千点を超えます。
後に尾花はインタビューに答えて九州派について次のようなことを述べています。
「運動といえば一般的にそれは外部に向けてのものと受取れる。激しかった九州派の動きも他者から見れば美術の前衛運動として外部に向けたものとして映じたかもしれないが、私はむしろそれは己自身の内部に向けてのものであったと思う」』