尾花成春の世界  岩元鐡郎

画家は時々の散策で得た“理もれ木”の欠片(かけら)を持ち帰って丹念に洗い、アトリエの中央に置いて水分の蒸発を持つ。 翌日、乾いた襞を一段と際立たせた“埋もれ木”は、人の恣意による秩序づけを離れたモノそれ自体となって、凛として其処に有る。こうして、画家は人々が日頃見たり聞いたし、云わば、納得させられた事物とは別な姿と対峙し、此処 から、多くの示唆を受け取ることになる。

“埋もれ木” とのこの出会いを、 画面に留めるための旅立ちが始まる。 モチーフは彼の内面で変転する渦を為し、試行が重ねられる。 一が二を呼び、 二が三を引き寄せる。 三は万物を生じ、「万物陰を負いて陽を抱き」画面の 形而上的とも云える下地は、宛ら瀰漫する水の如くに揺れ始める。十数年、 黒の周辺に低く沈思してきた画家の新たな出発がここにある。 しかし、彼の 日常は坦々としていて、此のこと、有るがごとく、無きが如く、虚心水の如し、と受け止める他のない、 晴朗なものとなっている。

「老子」に次のような章句がある。
「三十の輻は一觳(こく)を共にす。 其の無に當りて、車の用有り。 埴を挺して以って器を為る。其の無に当りて器の用有り。戸牖をうがちて以って 室を為る。其の無に当たりて室の用有 。故に 有(存在) の以って利を為すは、無の以って用を為せばなり。」

折りに触れ繙いてきた 「老子」 だが、画家の日々の試みの至近にあって、謂う所の「道」 なる ものが豁然と立ち現れた、という思いを抱いたことがあった。 唯一無二にして、 所詮は非合理な る個々の経験世界を、普遍的な理論に以って記述すること、平たく言えば、理に落ちる話しに 馴れ切っている近代的思惟は、虚の何たるか敢えて知ろうとはしないし、感じ取ることもない。輻がこしきに集められて消え、容器の中空こそがその用を為さしめている、という視点は、轆轆 に立ち上げた土に囚われていては得られまい。 尾花成春もこれと同質のことを語っている。 下地 の黒の上に微細に描いた “埋もれ木”を置くと、黒が動き、 虚が実と改まって、 “埋もれ木 以外 のものを拒むかの如くであった。 画面の中、 俗心に誘われて、 一筆を描き加えれば、瞬時にして 虚と実が反転する。 虚である黒地は、手に負えない別の形相として立ち現れてくる、というので ある。世界が人間にとっての「何」であるか、という矮小な視点を切り捨ててしまえば、此所に 現れた形相とは、人間の全一性、 言葉を換えれば、魂を以って相対する他は無い根源的な存在で あるかもしれない。

ところで、我々の日常は、啓蒙由来の合理的認識と伝統社会からの諸々の帰結を、それぞれ 異質なもののモザイクとして抱え込んでいる。 昔、 人間を人間たらしめていた、聖なるものへの 通路はとうに消滅し、 先に触れた全一性といい魂と謂い、この言葉が湛えていた倫理的含意は 千上がり、 今は全くの死語と化して、些かの感も生まぬものとなっている。 今日、人それぞれ を内から支えているのは、 視る行為は省察を 俟たずして、真実に対面できる、という希薄な了解、 併せて、個別の科学概念に補強された客観的事実への通信なのだ。敢えて直言すれば、時代は この安易なリアリズムのぬかるみとなっている。 嘗て尾花成春が筑後川の河原の、俗世間から
切り取られた部分に執着していたのもこのことを暗に感じ取っていたからだった。
この連作は奔放不属の想像力の所産といえるものではない。むしろ己を虚しくして天地に感応し、眼前の事物に素直な眼差しを向けようとする控えめなもの、 ただそれだけのことなのだ。
「才にして此一筋に繋がり」、 六十年にして、画家は芸術作品に於ける自由、という難題に向き合うこととなった。

永らく、作品に画題を付けることをしなかった画家が、某日、 埋もれ木の連作に共通して 「渓谷 にて想う」と題したいと語っていた。モチーフに触発され、アトリエの雲の如く拡がる懸念、 渓谷の只中に独り立つ己が、身いっぱいに受け止めた世界の立ち現れ、その経験と感動を「渓谷 にて想う」とするのである。

2007年 久我記念美術館 尾花成春「渓谷にて想うこと」

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2022.8.25

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